わたくし、ちびっ子の頃から絵本は大好きでした。
ですが、幼少期のわたくしの好みは
わかやまけん の「こぐまちゃん」シリーズ(1970~)や、キヨノサチコ の「ノンタン」シリーズ(1976~)など、絵柄がシンプルでかわいいものでした。
かこさとし先生の「だるまちゃんとてんぐちゃん」も家の本棚にありましたが
「なんだか古臭い絵だなぁ」と思っていたのでした。
時は流れ、大人になったわたくし、せっせと絵本を読みに小学校に通ったりしておるわけですが、コレすべてかこさとし先生の影響と言っても過言ではありません。
と言いましてももちろん、かこ先生に直接師事していたわけではなく、かこ先生を知ってゆくにつれ、すっかり魅了されてしまったのです。
そんな、かこさとし先生の魅力とエピソードを、2014年に文藝春秋から刊行された自叙伝「未来のだるまちゃんへ」から引用参照させていただき、ご紹介できればと思います!
2018年5月に亡くなった かこさとし先生、享年92歳でありました。
昭和電工を47歳で退社するまで、会社員との二足わらじ作家という異色の経歴をお持ちです。
長年サラリーマンをしながら絵本を制作していたということも驚きですが、先生の肩書はこうです。
絵本作家、児童文化研究者。東京大学工学部応用化学科卒。工学博士。化学技術士。
かこさとし 公式webサイト より
東大卒で工学博士て!
失礼ながら、絵本作家さんの肩書とはかけ離れているような!
かこ先生の代表作、「だるまちゃん」シリーズのように、いわゆる「こども」の魅力をキャラクター化した創作物語が印象的ですが、先生にとっての初めての絵本はこちら。
「だむのおじさんたち」!!!
激シブ!!!
表紙もシブさのかたまりです。
きっとダムの建設に関わっているであろう「おじさん」に肩車される丸坊主の男児、そしてその上にサル、そしてリス!ダムの建設に関わっているであろう「おじさん」のシャツの裾をつかみテンション爆上げの女児。
当時、福音館書店の編集長に「今の時代にふさわしい、大きなテーマで描いてください。」と言われ、三つのアイデアを提出したそうです。
時代は戦後復興、高度経済成長期へ突入していたころ。
ひとつは、過酷な労働条件で「お父ちゃんがなかなか帰ってこない」はなし。
ふたつめは、ひそかに『金と命の交換工場』と言われていた巨大製鉄工場のはなし。(ヒー)
みっつめは、しょっちゅう停電してしまうことと煤煙が酷かったことなどから、火力発電にかわる水力発電を知ってもらうべく、ダムを建設して山に発電所ができるまでのはなし。
で、「ダムのはなし」が採用されたわけです。(さもありなん)
戦後、絵本の業界には、敗戦の記憶をできるだけ忘却しようとする世相を反映してか、無国籍のものが溢れていたけれど、『だむのおじさんたち』は、もう、ハッキリと「日本のいまの働くお父さんたち」の話でした。
~中略~
(だからといって)子どもさんの「理解の輪」の外に出るようなことまで言う必要はないわけです。そのためには、あれもこれも言わないで、伝えたい主題はひとつに集約しました。
『だむのおじさんたち』では、科学技術と自然は対立するものではなく、調和できるものとして描きました。
昭和三十年代くらいまでは、まだそれが可能だったのです。「未来のだるまちゃんへ」より
そのほかにも、科学絵本というジャンルにカテゴライズされる作品として
「かわ」「海」「地球~その中をさぐろう」「宇宙~そのひろがりをしろう」の4冊があります。
「かわ」(1962年)について、こんなエピソードを語っておられます。
『かわ』を刊行したのは昭和三十七年のことで、ちょうど公害問題がクローズアップされだした頃だったので「そのことを絵本に盛り込んではどうか」と意見する人もいました。(しかし)子どもたちは、この先何十年も生きていくのだから、今、見えている結論を押し付けるだけではすぐに役に立たなくなってしまうでしょう。
絵本というのは、その時点でのメッセージを伝えるための道具ではないのです。
僕が伝えたかったのは、川のもっと本質的な、何十年後にもゆるがない基盤事項でした。
「未来のだるまちゃんへ」より
かこ先生は、この世に普遍にあるものを、つぎつぎ誕生する「未来」の象徴である子どもに、「絵本」というトリセツを遺されたわけです。
これは工学研究家であり児童文化研究家ならではの視点だなぁと感嘆しました。
ちなみに「かわ」は、蛇腹仕立てになっていて、山に降った雪や雨が川をつくり海にながれる様子が視覚的にも楽しめる素敵な絵本なのです。
「宇宙 -そのひろがりを知ろう-」では、とうとう会社を辞め、山と集めた資料を収めるアトリエまで建てるほど熱心に取り組み、7年もの歳月をかけて制作されました。
蚤の跳ねる高さから始まり、150億光年先の宇宙の広がりを60ページにわたり展開しています。
あくまでも、子どもが手に取る絵本ですが、大人が読んでもうなる見事な構成であります。
また、この「宇宙」で特筆すべきは、その巻末にご自身による解説が書かれているのですが、こまごまとした制作意図や丁寧な解説の最後に、こんなエピソードをつづっておられました。
最終の原稿を届け終えた翌日、障害をもつ子と同数の普通児が一緒に指導を受ける総合保育の施設を訪れました。ダウン症の子や難聴の子がしっかり口をあけて歌う声をきいているうち、私は身体が小刻みふるえてきました。その歌声と歌詞が強く、しかもさわやかに耳にひびいてきたからです。
オリオンは高くうたい
つゆとしもとをおとす
アンドロメダのくもは
さかなのくちのかたちいわずと知れた宮沢賢治の星めぐりの歌です。
どんな子もこうしたすばらしい子になれるちからをもっているし、その様にしたのは、子どもたちを支えている保母さんたちや親御さんたちの力です。
先生はこの園でのできごとに胸いっぱいになって、次のシリーズにとりかからねばと決意したそうです。
・・・もうね、泣きましたよ。
実はこの絵本、わたくしに第一子ができるずっと前から持っていたのですが、解説を読んだのは おりしも、次男が2歳半で重度の自閉症であると診断されたとき。
ハンディキャップのある子どもは、その欠損した部分ばかり見られがちですし、その部分をうめてあげようと医療も家族も必死になります。
ですが、もともと持っているポテンシャルで、そのいわゆる「持って生まれなかった」部分を補うチカラはあなどれません。
生き物というのは、なんとたくましいものだろうと、次男に教えられたばかりの時でした。
かこさとし先生は、ずっと子どもを見てきた方です。
ですが、同時に、子どもにかかわる大人もとても丁寧に観察される方なのです。
この解説を目にした時から、わたくしはズガビーーンと雷にうたれ、かこ先生の作品を買い集めるようになったというわけです。
「こどもをみくびらない、年少のものを侮らない。」
これは、わたくしが20代後半の若い時に、心に決めた自分なりのルールでした。
自戒をこめたルールだったりします。
かこさとし先生は、弟子入り志願者がくると「僕より子どもに弟子入りしたほうがいいよ。」と決まって言っていたそうです。
子どもたちが僕の先生だった、と明言しています。
大人は、子どものことを「よくわかってる」つもりでいます。
あるいは、子どもっていうのは未発達だから、大人がいろいろ教えてやらないとダメだと思っています。
本当にそうでしょうか。「未来のだるまちゃんへ」より
かこ先生は、終戦後、手のひらを返すように態度を変えた大人たちに失望していました。
先生は視力が悪く軍人にはなれず、友達はみな戦死し、生きることに絶望していました。
大人ではなく、せめて子どもの役に立ちたい。
自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の力で判断し行動する賢さを持ってほしい。
その手伝いをするなら、死にはぐれた意味があるのかもしれない。
そう語っています。
わたくしは、子どものころ、大人にひどく失望していました。
学校も大嫌い、ともだちなんてもちろんいない、家も家族も大嫌い。
たいへん子供っぽい、短絡的な癇癪でありました。
今思うと、そういった子どもの短気に寄り添う余裕のある大人がいなかったのだと思います。
19やハタチのころ、子どもが嫌いでした。
子どもは大人を信用しないものだと思っていたからです。
わたくし自身、そういう子どもだったからです。
絵本なんて子ども相手の仕事だとみくびったら、そんなのは子どもたちにすぐ見破られてしまうのです。
子ども相手だからこそ、むしろ小手先の技やごまかしは通用しない。
人間対人間の勝負。「未来のだるまちゃんへ」より
自分に子どもが生まれたから気づいた、というよりも、自分に子どもができてから、よその子や、また子どもを取り巻く大人たちが視野に入ってくるようになりました。
たとえば、子どもと信頼関係をつくることに長けている大人に、性別、年齢、未婚既婚、実子のいるいないは関係ないということに気づかされました。
わたくしが小さいころよく耳にしたセリフ
「お母さんがおなかを痛めて生んだのだから、親に感謝して命を大事にしよう。」
たしかに妊娠出産のときに、腹が痛くなかったかといえば痛かったですけど
それとこれとは話がちがう、と思ったものでした。
腹が痛かろうが痛くなかろうが、子どもは感謝するときは感謝するし、生きたいと思えば命に感謝するでしょう。
そうした思いを、かこ先生の作品やことばはすべて受け入れてくれるように思ったのです。
さて、なんだかシリアスな雰囲気でみなさんが気絶しているようなので、このエピソードだけは最後に語らせてください。
「加古里子」というお名前。
不思議なお名前ですよね。
本名は「中島哲(なかじまさとし)」です(!)
なかじまさとし!!!
では、なぜ中島哲が加古里子になったのか。
加古先生の高校時代の国語教師が中村草田男先生だったそうです(!)
当時俳句も詠まれていた加古先生は、俳号をつけることにしました。
俳人の名前は三文字が多かったことから「三斗子」とされました。
ですが、戦時下で紙もインクも節約しなければならなくなり、三文字の名を二文字表記にすることに。
「三斗」だと大酒のみのようなので「里子」としたそうです。
ふむふむ、なるほど。
では、加古はというと
「あ行の次のか行から二文字、とって”かこ”にしました。」
…はっ???
里子にはわりとちゃんとしたプロセスがあったものの、加古のほうはテキトウだったようです。
こんなところも、魅力的なかこ先生なのであります。
絵本というジャンルは、とても奥が深いものです。
わたくしは大人になってからかこさとし先生に心酔しました。
子どもの頃に感じたこと、大人になってから気づくこと。
大人の人にこそ、手に取ってほしいと思うのであります。









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